Masuk暗闇の中。 階段の向こうから、朝の光だけが差し込んでいた。 いのりは、六本目のカセットを見つめた。 ――本当の名前。 さっきまでなら。 停電したことに、何か意味があるのではないかと考えただろう。 午前二時十三分。 湖。 鈴。 時間の狭間。 また何かが始まるのではないか、と。 けれど今は違う。「……ただの停電だよね」 少し笑った。 ペンション調は、もう普通の建物だ。 時間を越える扉はない。 理人に会える奇跡も、起きない。 それでいい。 いのりはスマートフォンのライトをつけ、カセットデッキを確認した。 電源は落ちている。 だが横には、古い携帯用プレーヤーが置かれていた。 乾電池式。 その上に、理人の文字。 ――停電した時用。「準備よすぎない?」 泣きそうだったのに、笑ってしまう。 乾電池を入れる。 六本目のテープを差し込んだ。 カチ。 再生。 ザザ……。『いのり』 理人の声。『ここまで来たなら、たぶんお前は俺の名前について気づき始めてる』「……うん」『二月十八日の光』 一九八三年。 真冬の湖。『二〇二〇年、俺が死んだ夜の光』 十七歳の理人。『調を閉じた翌朝に見た、最後の光』 二〇〇一年七月二十四日。 そして。『母さんが俺につけた名前』 いのりは息を止めた。 来る。 ずっと探していた答えが。『俺の名前には――』 ノイズ。 ザザ……。 しかし。『……いや』「え?」『やっぱり、ここでは言わない』「理人さん!!」 地下室に声が響いた。 こんな時まで。 こんな時まで、この男は。『怒ったか?』「怒るよ!」『だろうな』 笑っている。 絶対に笑っている。 いのりは涙を拭いながら、デッキを睨んだ。『それは、俺の口から説明するより』 理人の声が、ゆっくり穏やかになる。『最後に母さんが残した言葉と一緒に、お前に読んでほしい』 いのりの表情から、笑みが消えた。『だから今は、別の話をする』 一拍。『俺が、自分の名前を嫌いだった話だ』「……嫌い?」 初めて聞いた。『子どもの頃の記憶はほとんどない。でも、名前を呼ばれるのが嫌だった感覚だけは残ってた』 理由は分からなかった。 母が名前に願いを込めたことも忘れていた。 ただ、自分の名前を聞くたび。
五本目のカセットには、いのり自身の文字が残されていた。 ――未来の私へ。 ――今度こそ、約束を守って。 いのりは深く息を吸い、再生ボタンを押した。 ザザ……。『……理人さん』 聞こえてきたのは、自分の声だった。 遠くで風が吹いている。湖の波音と、誰かが泣くのを堪えるような呼吸。『私、本当は帰りたくない』 いのりの指が止まった。 覚えている。 あの別れの瞬間、自分は確かにそう思っていた。『分かってるよ』 理人の声。『俺も、一緒にいたい』『だったら……』『でも、いのり』 彼は優しく言った。『俺たちは、ちゃんと選んだだろ』 いのりは目を閉じた。 花の鈴は葉月へ。 月の鈴は理人へ。 そして自分は、二〇二六年へ。 互いの人生を勝手に決めないための、最後の選択だった。 録音の中で、いのりが泣いている。『ねえ、理人さん』『ん?』『私、帰ったらどうすればいい?』 長い沈黙。 理人は、すぐには答えなかった。『……まず、飯食え』『そこ?』『それから寝ろ。お前、無理するとすぐ顔に出るから』『理人さんだって』 二人が小さく笑う。 その笑い声が、あまりにも懐かしかった。『それでさ』 理人が続けた。『明日になったら、明日のことを考えろ』 いのりは唇を噛んだ。『十年後の幸せまで、今決めなくていい』『……うん』『俺のことを忘れたくないなら、忘れなくていい』 理人の声が震えた。『でも、俺との別れを、お前の人生の終わりにするな』 いのりの目から涙が落ちた。「……うん」 テープの中の自分は、しばらく泣いていた。 やがて、何かを決めたように口を開く。『じゃあ、約束して』『何を?』『私たち、幸せになったら……』 そこで言葉が途切れた。 風が強くなる。 いのりはデッキに顔を近づけた。『幸せになったら、相手に申し訳ないって思うの、やめよう』「……!」 胸の奥で、何かがほどけた。『理人さんが笑ってる時、私が隣にいなくてもいい』『……いのり』『私も、いつか笑えるようになった時、理人さんを置いてきたって思わない』 理人が息を呑む音がした。『だって、私たちは、お互いを不幸にするために別れたんじゃないもん』 いのりは口元を押さえた。 忘れていた。 こんな大切な言葉を。『……そうだな』 理
四本目のカセットを再生すると、最初に聞こえてきたのは、懐かしい笑い声だった。『巌、そこ違う!』『うるせえ。分かってる!』『分かってないから言ってるんでしょうが!』 すみえの声。 続いて、理人が笑う。『二人とも、客が起きるぞ』『お前も手伝え!』『はいはい』 いのりは思わず笑った。「……本当に、仲良しだったんだね」 録音の中では、食器が触れ合い、誰かが椅子を引いている。まるで三人が今も食堂で朝食の準備をしているようだった。 やがて音が途切れ、年を重ねた理人の声に変わった。『いのり。ここからは、俺たちが選んだ人生の話だ』 カサリ。 紙をめくる音がした。『最初は、葉月さん』 いのりは姿勢を正した。『葉月さんは、二〇五四年へ帰った。あの人が元いた時間だ』 未来へ帰る直前、葉月は巌に尋ねたという。『私がいなくても、幸せになれる?』 巌は答えた。『分からねえ。でも、幸せになる努力はする』 葉月は泣きながら笑った。『じゃあ、私もそうする』 二人は抱き合わなかった。 最後まで、互いの手を握っていた。『あの二人は、一緒になることだけが愛じゃないって、俺に教えてくれた』 いのりは目を閉じた。 葉月は未来へ帰り、巌は過去に残った。 その後、巌は別の女性と出会い、家庭を築いた。 その先に母がいて、自分がいる。「……ありがとう、葉月さん」 次に流れたのは、すみえの声だった。『あんたたち、私のこと忘れてないでしょうね』「忘れるわけないじゃん」 いのりは涙を拭いながら笑った。『私ね、昔は自分が悪者になれば全部うまくいくと思ってたの』 葉月を殺した。 そう嘘をついた夜。 誰かを守るために、自分だけが罪を背負おうとした。『でも、違ったのよね』 すみえの声が、少し柔らかくなる。『守りたい人にだって、本当のことを知って、自分で選ぶ権利がある』 彼女はその後もペンションで働き、多くの客を迎えた。そして年を重ね、いつか二〇五四年から来る葉月へ花の鈴を渡す役目を果たした。 けれど、その人生は鈴のためだけにあったわけではない。『私は私で、結構楽しく生きたわよ』 いのりは声を上げて笑った。「すみえさんらしい!」 ザザ……。 次に聞こえたのは、巌の声だった。『いのり』 その一言で、涙が溢れた。「……おじいちゃ
三本目のカセット。 ラベルには、二〇二六年七月二十三日と記されていた。 いのりは再生ボタンに指を置いたまま、しばらく動けなかった。 あの日。 理人とペンション調へ来た日。 何度も時間を越え、何度も彼を失いかけた、すべての始まり。「……聞くよ」 カチャン。 ザザ……。『いのり』 理人の声だった。『ここからは、お前が忘れた話だ』 テープの奥で、車の走行音が聞こえる。 タイヤが砂利を踏む音。 ドアが閉まる音。 そして、若い女性の声。『ここ、本当に営業してるの?』「……私?」 いのりは息を呑んだ。 自分の声だ。 理人が笑う。『俺も知らない。お前が行きたいって言ったんだろ』『だって、夢に出てきたんだもん』 録音の中のいのりは、少し不機嫌そうだった。『湖と、古い建物と……鈴の音』 いのりは目を閉じた。 思い出した。 あの日、ペンションを見つけたのは自分だった。 何度も同じ夢を見ていた。 誰かが湖の向こうから名前を呼ぶ夢。 けれど、誰の声だったのかは分からなかった。『なあ、いのり』 理人の声が近づく。『怖いなら帰ろう』『……理人さんは?』『俺は、お前が行きたいなら付き合うよ』『そうじゃなくて』 短い沈黙。『理人さん自身は、どうしたい?』 いのりは顔を上げた。 あの時から。 自分は、彼に尋ねていたのだ。 理人自身の気持ちを。『……行ってみたい』 録音の中で、理人が答えた。『なんでか分からないけど、ここを知ってる気がする』『じゃあ、一緒に行こう』 足音が重なる。 二人分。 いのりは、涙を拭った。「……最初から、二人で選んでたんだ」 ザザッ。 音声が切り替わった。 今度は年を重ねた理人の声だった。『この録音を聞いた時、俺も驚いた』 紙をめくる音。『俺たちは、誰かに呼ばれて調へ来たんだと思ってた』 いのりは頷いた。 葉月。 巌。 未来の自分。 誰かが仕組んだ運命だと思っていた。『でも違った』 理人の声が、静かに続く。『夢を見たのはお前だ。でも、行くと決めたのはお前自身だった』 そして。『俺も、自分で行くと決めた』 いのりは膝の上で手を握った。 時間は壊れていた。 記録は書き換わった。 けれど、二人が交わした言葉まで、誰かに決められていたわけではない
二本目のカセットには、古い紙のラベルが貼られていた。 ――母さんが残したもの。 いのりはそれを指でなぞり、デッキへ差し込んだ。 カチャン。 再生ボタンを押すと、しばらく雨の音が続いた。『理人。これを聞く頃、あなたはいくつになっているのかしら』 女性の声だった。 優しく、少しだけ掠れている。 いのりは思わず背筋を伸ばした。「……理人さんのお母さん?」『お誕生日、おめでとう』 雨音の向こうで、女性が笑った。『十七歳ね。あなたが生まれた日も、こんな雨だった』 いのりは息を呑んだ。 理人の誕生日。 それは、まだ知らない。 彼自身も、自分の幼い頃の記憶をほとんど失っていた。『今日は、あなたの名前の話をしようと思って』「……!」 いのりはデッキへ顔を近づけた。 しかし、女性はすぐに言い直した。『いいえ。その前に、謝らなきゃいけないことがあるわね』 雨が強くなる。『あなたが小さい頃、私は何度も言ったでしょう。強い子になってね、って』 声が少し震えた。『誰かを助けられる人になってほしい。困っている人を放っておかない人になってほしい。そう願っていたの』 いのりは目を伏せた。 理人らしい。 あまりにも。『でもね、理人』 一拍。『あなたが誰かを助けられない日があっても、私はあなたを愛しているわ』 いのりの指が止まった。『誰かの役に立たなくてもいい。強くなくてもいい。逃げたくなったら逃げていいの』 雨音に、小さな物音が混じる。 女性が涙を拭ったのかもしれない。『だから、お願い』『自分の命を、誰かのために差し出さないで』「……お母さん」 いのりは唇を噛んだ。 理人は、何度も自分を犠牲にしようとした。 葉月のため。 巌のため。 いのりのため。 けれど母親は、ずっと前から伝えようとしていたのだ。 誰かを守れなくても、生きていてほしいと。 テープの中で、女性は深く息を吸った。『あなたの名前には、私の願いを込めました』 いのりの心臓が跳ねる。『でも、その願いに縛られないで』 そこで、録音が途切れた。 ザザッ。「……え?」 続きがない。 何度聞いても、雨音のあとには無音が続くだけだった。 やがて、別の日に録音されたらしい理人の声が流れ始めた。『母さんの声、久しぶりに聞いた』 年を重ねた理
三本目のカセット。 ラベルには、二〇二六年七月二十三日と記されていた。 いのりは再生ボタンに指を置いたまま、しばらく動けなかった。 あの日。 理人とペンション調へ来た日。 何度も時間を越え、何度も彼を失いかけた、すべての始まり。「……聞くよ」 カチャン。 ザザ……。『いのり』 理人の声だった。『ここからは、お前が忘れた話だ』 テープの奥で、車の走行音が聞こえる。 タイヤが砂利を踏む音。 ドアが閉まる音。 そして、若い女性の声。『ここ、本当に営業してるの?』「……私?」 いのりは息を呑んだ。 自分の声だ。 理人が笑う。『俺も知らない。お前が行きたいって言ったんだろ』『だって、夢に出てきたんだもん』 録音の中のいのりは、少し不機嫌そうだった。『湖と、古い建物と……鈴の音』 いのりは目を閉じた。 思い出した。 あの日、ペンションを見つけたのは自分だった。 何度も同じ夢を見ていた。 誰かが湖の向こうから名前を呼ぶ夢。 けれど、誰の声だったのかは分からなかった。『なあ、いのり』 理人の声が近づく。『怖いなら帰ろう』『……理人さんは?』『俺は、お前が行きたいなら付き合うよ』『そうじゃなくて』 短い沈黙。『理人さん自身は、どうしたい?』 いのりは顔を上げた。 あの時から。 自分は、彼に尋ねていたのだ。 理人自身の気持ちを。『……行ってみたい』 録音の中で、理人が答えた。『なんでか分からないけど、ここを知ってる気がする』『じゃあ、一緒に行こう』 足音が重なる。 二人分。 いのりは、涙を拭った。「……最初から、二人で選んでたんだ」 ザザッ。 音声が切り替わった。 今度は年を重ねた理人の声だった。『この録音を聞いた時、俺も驚いた』 紙をめくる音。『俺たちは、誰かに呼ばれて調へ来たんだと思ってた』 いのりは頷いた。 葉月。 巌。 未来の自分。 誰かが仕組んだ運命だと思っていた。『でも違った』 理人の声が、静かに続く。『夢を見たのはお前だ。でも、行くと決めたのはお前自身だった』 そして。『俺も、自分で行くと決めた』 いのりは膝の上で手を握った。 時間は壊れていた。 記録は書き換わった。 けれど、二人が交わした言葉まで、誰かに決められていたわけではな